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コ・デザイン デザイン参加の手法2

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「背景(事実関係) 需要の広がり」
建築とは地域全体に関する事柄である、というのは、古くからある考え方です。私たちの社会でも昔はそうでしたし、多くの発展途上国では今でも地域社会を作ることや納屋などを建てること、教会を立てることなどは、社会生活で大切な部分を占めていました。彼らは単に建物を建てただけではなく、地域の活力をも築き上げたのです。これらの社会では、地域の公共の建物がないということを社会的な退廃のしるしであると見なします。(注1)

現在では、典型的な地域社会では人々は滅多に自分たちが使う公共の建物を建てる作業に参加することはありません。私たちの都会生活では、社会的な疎外と非人間的な環境は全くありふれています。Co-Designは、地域社会の人々を自分の環境をデザインするという作業に引き込むことによって、この動きに対抗しようという試みです。

歴史的に、地域社会に関わりを持つことは社会的、文化的な重要性が非常に高いとして認識されてきました。ケネス・クラーク卿は古い言葉を引用しています。

「1144年だと伝えられているが、まるで魔法のように塔が空へ向かって建てられていたころ、信仰深い人々は石を運ぶ荷車に体をくくりつけ、石切り場から大聖堂へとひっぱっていた。

情熱はフランス中に広がった。男たちも女たちも、労働者のためにブドウ酒や油やトウモロコシなど重い食料を持って遠くからやってきた。領主たちや貴婦人たちもいて、他の人たちと一緒に荷車を引いた。人々は完全に統制が取れた振る舞いをし、そこには深い静寂があった。すべての人の心が結びつき、誰もがそれぞれの敵を許した。(注2)」

劇をするときやクリスマスツリーの飾りつけをするときなどには、私たちもこのような、共に何かを達成する感覚を味わいます。私たちは互いに対する好意的な感覚に輝き、互いに成功を祝いあい、それほどうまくできなかった者がいれば励まします。私たちのグループあるいは家族としての生命力が強まります。

Co-Designのワークショップでは、私たちは同じ輝きを、参加者の間の友好的な感覚を、そして地域共同体の健全な生命力を目の当たりにします。共同的な創造性は、ないがしろにされていた公共の建物や広場に命を吹き込みます。器物破損行為はなくなります。芸術に社会が関わることの重要性について書いた文章の中で、フランク・アヴレー・ウィルソン(訳注:1914-2009 、イギリスの抽象画家)はこう述べています。「個人が癒され、社会全体が癒される。個人の体と心の状態が癒されるに留まらず、グループや社会の関係全体の病への癒しが生じる。」(注3)

都市デザインと造園を含む建築は、その規模と社会的な影響の面で他のすべての芸術を超えています。特に公共の建築は社会に設定条件を提供し、私たちの日常生活の様々な側面で不可欠な役割を果たします。芸術における社会の関わりの源として、その大きさと恒常的かつ直接的な接触という点で建築は他に比べるものがありません。公共の建築物のデザインは社会全体の生活に影響を与えるので、誰もが関心を持つ権利を有します。

デザインに参加した後は、人々はその成功に自分が貢献したことを誇りに思うことができます。そして、そのことについてのちのち何年も、日々、思い出すことができます。社会の中の建築物が人々の共通する価値観を反映するとき、人々は地域社会の一部であるという感覚を育むことができます。建築デザインへの参加は疎外感を打ち消します。

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「公共建築への関心の高まり」
建築の公共の側面は昔から認識されています。ルネッサンス建築の創始者の一人であるレオン・バッティスタ・アルベルティは1450年代に建築は社会的な関心事であると書いており、建築が完全に公的な活動であるという見方をしたことで知られています(注4)。1800年代の半ばには、ジョン・ラスキン(訳注:1819-1900、イギリスの芸術評論家)「建築はすべての人が学ぶべき芸術である。なぜなら、それはそれはすべての人に関わる事柄だからである」と主張しました(注5)。1900年代の初めには、ウィリアム・モリス(訳注:1834-1896、イギリスのデザイナー)は次のように述べて市民が建築に責任を負うよう促しました。「建築の偉大さは、、、人の人生全体を包み込む。私たちは、自分たちに関わりのあることを一握りの学識のある人々に任せて、彼らに何から何までさせておくわけにはいかない。、、、私たち一人一人が(建築が)環境に対して公正であるか、そして私たちの街の住み心地の良さが確保されるか、ということに目を光らせていなければならない。」

今、私たちは一世紀に及ぶ公共教育のお陰で、比較的平和な世界と知識の高まりという新しい状況を手にしています。人々は自分たちの環境に対して発言権を要求しており、かつてないほど強く意思を主張します。アルヴィン・トフラー(訳注:1928年~、アメリカの評論家、未来学者)は、参加型民主主義について書いた文章の中で次のように述べました。

「状況は国によって違うが、適度に教育があり、全体としてこれほど多種多様な知識を備えた人々がいたことは、歴史上かつてなかった。これほど多くの人々が非常に高い水準の豊かさを楽しんだことはなかった。それは不安定ではあるかもしれないが、社会的な関心事や行動に時間とエネルギーを注ぐことができるようになるのに十分なほどの豊かさである。これほど多くの人々が外国に旅をしたり外国人と意思を疎通したり、他の文化からこれほど多くを学んだりしたことは、かつてなかった。」

人々の知識と明確な主張がCo-Designのエネルギー源となります。地域社会の人々は、自分たちの住む地域をデザインする過程に参加するために、私たちに手助けを求めます。Co-Designの手法は、そのような必要性に応じて、そしてデザインに関する議論の過程で生じる状況に応じて発達します。伝統的な建築教育でも、建築の現場でも、市民と共にデザインをするためにはどうしたら良いかは教えられません。建築学の教育の場において、社会的な事柄や地域社会の組織化、大人数のグループと意思の疎通をするための方策と技術を含めた教育がなされる必要があります。高度な視覚化の技術が習得できるように訓練する必要がありますし、建築デザインの技能にはインテリアデザインやプラニングや都市デザインも含めなければなりません。コミュニティー・デザインに対する新しい見方に対応する新しい手法を開発する必要があります。

一面では、新しい手法は従来のやり方に反する場合もあります。例えば、間取り図に始まって完成予想図で終わる伝統的な建築コミュニケーションの過程を辿るのではなく、Co-Designではその過程を逆に行います。人が過去の記憶を呼び覚ますときは、それは心の目に浮かびます。未来の様子も同じようにして想像することができます。このように、未来の情景に関して意思の疎通を図るときに重要なのは視覚化です。Co-Designの過程では、見る人がその情景の中で経験することを想像する手助けとなるよう、完成予想図を先に描きます。それから、より良い理解をもってその場所のデザインに関する議論を深めることができます。情景がデザインされた後で、私たちは部屋なり空間なりの見取り図を描き、情景を説明し、それを立体化します。

「伝統的な手法の危険性」
提示された開発計画について行政府が市民に意見を求める際の伝統的な方法は、往々にしてデザインという目的に照らせば不十分なものです。一般投票、公聴会、意見交換会などは、地域デザインに関心のある人々の心に「デザインが本当に地域の人々の意見を反映したものになるだろうか」という疑念を残します。これらの方法では、個々の市民が計画に参加したくても障害が多々あります。利害の対立は否定的な意見を促します。会議が行われることが十分に知らされない、情報の入手が間に合わない、などの原因で議題に関する理解が深まらないという問題もあります。一度に一人の人しか発言できないため、声が大きくて主張の強い人が発言権を握ってしまう、さらに、過程そのものに創造的な代替案を視覚化する手段が欠けている、ということもあります。その結果、結果はデザイナーにとってあまり役に立たないということになりがちです。

伝統的なデザイン過程における市民計画委員会は、小数の人々を選んでデザイナーと一緒に議論を行い、地域の代表として意思決定を行います。

デザインに関する議論が進むと、この少数の人々は問題の事柄に関して地域の他の人々より多くの知識を持つことになります。議論を地域全体に広げるに当たっては、伝統的な手法の問題点を避けるための議論の方法が必要になります。もしもこの少数者のグループがうまく意思の疎通をすることができないと、人々はこのグループは自分たちとは遠い存在で、意見が固まっていて、地域のエリートの利害に叶うような行動をしていると感じます。もっとひどいときには、彼らが自分たちの個人的な利益のために行動しているのではないかという疑いをかけられます。この小さなグループにとっては、地域の中で利害の対立するグループが分裂する危険が生じるかもしれず、あるいは軽蔑と怒りの混じった嵐が吹き荒れるかもしれない市民との会議は、恐ろしいものとなります。

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「板ばさみになるデザイナー」
公共の会議の場で伝統的な方法で開発計画を提示するデザイン関係者は、どちらに転んでも良い目にはあわない板ばさみになることがあります。提示する内容が詳細であればあるほど批判も多くなります。絵や模型が良ければ良いほど、既に何でもかんでも決めてしまっている、と非難されます。萎縮した感覚が忍び寄ります。肯定的な詳しい反応がないと、デザイン関係者は往々にして批判された要素を削除し、デザインの特徴を縮小させます。削ったものを他の何かで埋め合わせない場合も多々あります。

彼らは自分の考えていたことをだんだん言わなくなります。否定的な反応はデザインに関する意思決定を遅らせます。そして、認可の遅れはデザイン料金に食い込みます。公共の会議でデザインが却下されると、それはプロジェクト全体をデザインし直さなければならないことを意味しかねません。たいていの場合、デザインのやり直しまでする予算の余裕はありません。さらに、次のときに何が受け入れられるかを示す肯定的なヒントはありません。何を避ければ良いかという否定的なヒントがあるだけです。

会議が大失敗に終わると、市民に対するデザイナーの態度が悪化するという危険もあります。学校を出て活動を始めたばかりの若いデザイナーにとっては、ことに市民のために都市環境を良くしようという強い情熱を持った若者にとっては、公共の会議での悪い経験は心に深い傷を残しかねません。市民参加のためにさらなる努力をしようという意欲を削いでしまいます。環境を利用する人が計画に参加することへの欲求が高まる中にあって、これは望ましい心構えとは言えません。

極端な場合には、行政府や開発会社が過熱して広く知られるようになった論議の只中に計画を押し付けると、失敗の値段は非常に高くなります。あるケースでは、大きな市民センターの計画でしたが、失敗で50万ドル近くかかりました。このうち、およそ35万ドルは建築家に支払われた料金で、およそ10万ドルが一般投票に要した費用でした。この一般投票では、建築計画はあやうく撤回されるところでした。そのようなケースでは、不人気な開発計画に取り組む建築家は論議と無駄金の源と見なされる危険を冒します。のちには、その地域の行政府や開発会社は皆、そのような公共の侮蔑にさらされた建築家を雇うことを躊躇するおそれがあります。

これらは、デザイナーが伝統的な方法で利用者とのコミュニケーションを図った場合に負いかねない危険性です。デザインに関わる者は、緊急にこれらの危険性を回避するための新しい方法を必要としています。

「私的なデザイン対話から公共のデザイン対話へ」
従来の開発過程では、開発に結果によって影響を受けるけれどデザインに関する議論に関係しない人々が疎外されます。子供たちは、ブルドーザーが彼らの遊び場だった空き地を更地にするとき、期せずして影響されます。彼らは、自分たちの人生の一部に対して無力であるという事実に苦しみます。大人もまた疎外感を経験します。彼らは自分の周りの環境に愛着を持ったり、少なくともそれに慣れ親しんだりします。そして建築家がやってきて、結果によって影響を受ける人々を議論に招かずに計画を立てます。環境が彼らの人生の一部になっているので、大人たちは子供と同じように自分の人生に対して無力であるという感覚を得ます。

しかし、建築家が個人の顧客と関わり、デザイン対話に顧客を引き入れる場合には話が違います。建築家は、通常は個人の顧客をデザインから疎外することはしません。個人の顧客が自分の新しい環境における新しい暮らしについて予見することを建築家に話すとき、彼らはデザインを形作り始めます。対話は、建設予定地の特性と制限が調査され、費用の優先順位が計られ、完成したデザインが評価されるデザイン条件を提示します。これらの条件を作り出す対話は、デザインの発展と成功に大きな役割を果たし、建築家はこれに細心の注意を払い、時間を取ります。

対話には特定の性質があります。話は顧客が予見する暮らしの様子、彼らが日常の暮らしや特別のときにしているであろうこと、を中心とし、彼らがどういう暮らしをしたいかという予想図を描けるところまで続きます。光、空間、動き、感覚、そしてすべての感覚を通した知覚において顧客が好む環境の効果に配慮は集中します。デザイン条件について顧客と建築家の双方が完全な図を理解するまで、時期尚早なデザイン解決案は避けられます。予定地の顧客の人生との関係における性質を理解するために、予定地を訪れて時間を過ごします。対話はすべての利用者を含みます。家族の長だけではなく、普通は家族全員です。

これらの特徴は、長い建築的な経験において見られます。もしもそれらが守られないなら、トラブルが生じます。例えば、もしも夫が妻の代わりに彼女の好むところを語ろうとする場合などです。顧客が自分の考えをよく吟味する前にデザイン案が出される場合も議論が生じます。

この対話の原則を無視した公共計画の実行は疎外を招きます。これには、議論せずにアイディアを提示すること、実際の予定地での経験の代わりに予定地での暮らしのパターンを無視した技術的な予定地データに依り頼むこと、そして統計的な調査に基づくデザイン条件に完全に依存することを含みます。これらの方策はデザイナーが何が望まれているのかを知るのに役立ちますが、それらは創造的な地域共同体の参加という重要な要素を含みません。

「都会での疎外を減らすための鍵」
若い人も年配の人も、貧しい人も豊かな人も、無力な人も有力な人も、地域共同体のすべての人がデザイン対話に参加することができるようにすることが、都会での疎外感を減らす鍵です。今日のデザイナーは、多数の市民に意見を聞かねばなりません。求められているのは、変化によって影響を受けるであろうすべての人にデザインに関する議論を開くことです。疑いもなく、これは非常に大きな仕事です。しかしそれは可能であり、私たちはそのためにCo-Designの手法をご紹介します。

成功は、問題への解決法以上のものをもたらします。新しい秩序が生まれる、あるいは先述の引用文に沿った言い方をすれば、古い秩序が再び現れます。予期せぬ、そして歓迎されない変化への恐怖からの開放感が、共有する創造性における高揚感と交じり合います。それは、地域共同体の中に夢が生まれ、それが調和の図へと発達するにつれて、喜びの高みとも言うべき経験になります。
by ammolitering7 | 2013-01-22 14:54 | 「コ・デザインの手法」


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